ドキがムネムネな「Memories of 箙かおる」を拝見して。
こんばんは。
宝塚男子ピエールです。
12月14日(木)のサロンコンサート「夢の扉」で退団された、専科の箙かおるさん。
その退団に合わせて放送されたインタビュー番組、
「Memories of 箙かおる」を拝見致しました。
月組全国ツアー公演「鳳凰伝」に出演後、突然の退団が発表された箙さん。
しつこいくらい書いてしまい恐縮ですが、
箙さんはピエールの初観劇作品「傭兵ピエール~ジャンヌダルクの恋人~」にもコーション大司教役で出演されていた方で。
それから間もなくして観劇した星組公演「王家に捧ぐ歌」にもファラオ役で出演されていて、
「専科と言ったら箙さん」というくらいにピエールにとって偉大なお方でした。
いわゆる路線スターや組子の方々を応援するのとは違う感情だったと思いますし、
「箙さんが出ているからこの作品は観に行こう」というのとは違ったとは思いますが、
やっぱり箙さんの出ている作品が大好きでした。
箙さんの宝塚生活において僕が知っているのはごく一部に過ぎませんが、
この「Memories of 箙かおる」で知らなかった箙さんの歴史も垣間見えた気がします。
ちなみに箙さんの退団が発表されたのは、全国ツアー公演の千秋楽が終わってから。
そのことを惜しんでいた方はたくさんいたと思いますが、
箙さん自身としては「それで良かったと思っている」と。
全ツの前に発表して、「最後最後」と言われて気持ちが退団に向いてしまうのが嫌で、
普通にいつも通りに公演を終えたくてこの発表時期を選んだと話していました。
このタイミングで退団を発表されたのは箙さん自身の意思だったんですね(´;ω;`)
そしてタカラヅカニュースで最後のサロンコンサートの模様も放送されましたが、
観に行かれた方からの情報によると何と終演アナウンスは元宙組トップスター朝夏まなとさんが担当されてたとか!?
まぁさまにとってもトップとしての大劇場お披露目公演でごいっしょだった箙さん。
こんなところでも学年を超えた繋がりがあるんだなと幸せな気持ちになりましたヽ(;▽;)ノ
下級生時代
まずは初舞台の思い出について。
1975年の月組公演「春の宝塚踊り/ラムール・ア・パリ」で61期生の一人として初舞台を踏んだ箙さん。
公演中はとにかく楽しくて、
「一日に3回でも4回でもやりたいと思っていた」と振り返っていました。
そして初舞台を終えた後、
関西テレビの「ザ・タカラヅカ!」という番組にバンビーズというユニットの一員として毎週出演していた箙さん。
昔はタカラジェンヌがテレビにレギュラー出演することなんてあったんですね~。
バンビーズは他にも阪急百貨店のイベントに出演したり、
「今のファンの人は信じられないだろうけど、タカラジェンヌでありながら半分芸能人みたいな感じだった」と語っていました。
それから箙さんは中南米公演に最下級生として参加することになり。
早朝にアルゼンチンに着いたとき、
なかなか空港から出ることができず荷物が出てくる場所に延々と待たされ、
「なんでこんな待たされてんね~ん!( ̄∀ ̄;)」と思っていたところ。
ようやくお昼くらいにホテルに辿り着いたものの、
疲れ果てたところにいきなり出てきたのがわらじのように潰された大きなお肉。
「いきなりこんなもの食べさせるんかい~( ̄∀ ̄;)」と文句を言いつつもお腹が減ったので食べていたところ。
箙「前歯が欠けたんです(´;ω;`)」
何の話ーーーー(笑)!!(//∀//)
退団前の最後のインタビューで前歯が欠けた話……でもそんなところも好きです(//∀//)
しかも当時はアロンアルファなども無い時代だったので、
せっかくの中南米公演をすきっ歯のまま出演する羽目になったんだとか(笑)。
しかし公演が終わって帰国後。
「空港ですごい待たされた挙句に歯まで欠けたんですよ~(´;ω;`)」と言っていたら、
「あのとき何で待たされたか分かるか~?」と言われた箙さん。
国によって働いていい年齢が異なるため、
当時20才そこそこだった箙さんを働かせているということで、
スタッフの方が大使館まで呼び出されたりして足止めを食っていたんだそうです。
「団体で来ているのに一人だけ帰らせるわけにもいかないだろう」と大使館からも許可をもらえたそうなのですが、
「あんたのせいだったんやで~」と言われて箙さんも「じゃあ歯が欠けたのもしゃあないんか(´;ω;`)」とションボリしていたそうです。
でも別に箙さんが悪いわけじゃないですよね(笑)。
雪組時代
続いて「彷徨のレクイエム」という作品について。
当時は何と一つの公演において新人公演が2回行われていたらしく、
1回目は新公学年の中でも上級生が主演、2回目は下級生が中心となって上演という形式が多かったんだとか。
そういえば昔は新公が2回あったという話は聞いたことがあった気がしますが、
箙さんはまさにその時代だったんですね~。
しかも専科の方の役は新公学年ではない上級生でも出演していたりしたそうです。
そして麻実れいさん主演の「彷徨のレクイエム」で初めて新公主演に抜擢された箙さん。
この公演では新公メンバーを真っ二つに分けての上演だったそうで、
もう一方のチームで主演したのが箙さんの同期生だったため、
お互いがお稽古しているのを見られないようにしていたくらいライバル意識に燃えていたそうです。
それから「うたかたの恋」で抜擢された、
上級生の麻実さん演じるルドルフの父親であるヨゼフ皇帝役に苦労したお話。
最後の場面で主題歌を歌うカゲソロは当初は別の方が歌われていたそうなのですが、
ある日突然オーディションをすると言われて箙さんも参加することになり、何と見事に合格。
しかし演出の柴田侑宏先生と作曲の寺田瀧雄先生呼ばれ、
「これをフランツ・ヨーゼフが歌ってるとバレたらすぐに別の人に変えるからバレないように歌え」
と言われたんだそうです。
何て無茶なヽ(;▽;)ノ
雪組から専科へ
そして1990年に雪組から専科へ異動した箙さん。
それまで雪組しか知らずに過ごしてきたけれど、
他の組にも興味はあったから楽しかったと振り返っていました。
1993年に出演した月組公演「グランドホテル」ではヘルマン・プライジング役を演じ。
演出のトミー・チューン氏を始めとする海外の先生方はすごく誉めて盛り上げてくれる方々だったらしく、
"Excellent!!"と誉めてもらいつつも「全然できてないのに何がエクセレントやねん( ̄∀ ̄;)」と思いつつも、
「でももしかしたら上手なんかもしれんで( ̄∀ ̄)」と思いながらお稽古していたことを明かしていました(笑)。
オリジナル版を観ながら研究していたものの、
「あなたはあなたのやり方でやっていいんだよ」とトミー・チューン氏からも言われたそうで。
また、箙さんがある日、髪型を7:3にして行ったところ、
「それはこの役に合わないからもう少し分け目を内側にしてごらん」と言われ。
箙さんが言われた通りに髪型を変えると。
エクセレント!!(・∀・)
と誉めてくれたそうです(笑)。
なんかこれ、「ワールドダウンタウン」を思い出したのは僕だけでしょうか(//∀//)
雪組組長時代
そして雪組に戻って組長に就任した箙さん。
組長としての在任期間はわずか1年半ほどだったそうですが、
組子に対する愛情が半端なかったと振り返っていました。
組長時代に上演された、83期生の初舞台公演でもあった「仮面のロマネスク/ゴールデン・デイズ」。
元月組トップ娘役の彩乃かなみさん、元宙組トップ娘役の紫城るいさん、
他にも愛音羽麗さんや悠未ひろさん、琴まりえさんといった方々の初舞台公演ですね。
「音楽学校生と違って、お給料をもらって、お客様も座席料金を払って観てくださっている」ということと、
「初舞台は同期生全員で踏める最後の舞台だから、そこで同期生の結束力を見せなさい」ということを伝えたいと考えていたそうです。
一度専科を経てから古巣に戻った分、
ずっと組にいたのとは違う愛情が組子や下級生にも芽生えたのかも知れませんね( ;∀;)
再び専科へ
そして再び専科へ異動。
「ささら笹舟」では大好きだった織田信長を演じられたことが本当に嬉しかったことを、
初めて大きな役をもらった下級生のように無邪気に語る箙さんの姿が微笑ましかったです。
他にも水夏希さん(当時宙組)主演のバウホール公演「フィガロ!」で漫才のようにお芝居をした思い出や。
「殉情」で演じた個性的な利太郎などのお話も。
そしておそらく最高の当たり役の一つになったのではないかと思われる、
「王家に捧ぐ歌」でのファラオ役。
箙さんが「傭兵ピエール」の東京公演に出演しているときからお稽古が始まってしまったらしく、
譜面やお稽古の様子が連絡されてくるもののまったく状況が分からず。
箙さんが公演を終えて宝塚に戻ったときには他の役はかなり形になってきた中でお稽古に合流し、
「どうしよう( ̄∀ ̄;)」と不安だらけな中でのお稽古になったと振り返っていました。
箙さんほどのベテランで貫禄のある方でも、
そんな不安と戦いながら作り上げていった役だったんですね~。
そのときの気持ちを語る箙さんの口からまさかの言葉が。
「ドキがムネムネ、汗がダラダラ」
カオリーーーーーーーーーーーーン!!!!(≧∀≦)(ごめんなさい)
箙さんの口からもアイリーンの「ドキがムネムネ」が飛び出すとは(//∀//)
たしかこれ、クレヨンしんちゃんが言ってたんですよね??
そして記憶に新しい朝夏まなとさんのお披露目となった宙組での再演。
アモナスロ役の一樹千尋さんと共に再び同じ役を演じて欲しいと言われた際、
「ありがとうございます、やらせていただきます」と答えたものの。
「大好きで評判もいい作品だしまぁくんのお披露目だし、自分が初演のときよりも劣化していたら断るべきかも知れない」
と不安になったそうで。
お稽古が始まるより前に自分でお稽古をしてあのときのようにファラオを演じられるか試してみたんだとか。
そして「これなら何とかいけるな」と確信をしてから集合日を迎えたそうです。
たくさんやった役の中の一つではるものの、
やっぱり思い入れは深い役だったようで、
「これから再演せんとって欲しいな、と思ったりして( ̄∀ ̄)」と冗談混じりで語っていました(//∀//)
下級生へ
そして宝塚の世界を受け継いでいく下級生たちへの言葉。
「宝塚の舞台に立つ人間として品格を忘れてはいけない、それが全てだと思う」と語った箙さん。
「上手にお芝居する、上手に歌うというのももちろん大切だけど、品格を忘れなければ、例え音が外れていても、例え足が上がらなくても、例え台詞を噛んでしまっても、取り戻せるものがあると思う。今は昔と違ってアイドル的な人たちがたくさんいるので、ちょっと横道にそれてしまいそうなときもあるけれど、宝塚としての品格は絶対に忘れて欲しくない」と語っていました。
また、「昔から宝塚を愛してきた人たちのことを大切にして欲しい」と考えているという箙さん。
「もちろん今のファンの人たちも大切だけど、それほど観客が入らなかった時代からずっと見てきてくれたファンの人が喜んでくれる作品を作って欲しい」
と感じているそうです。
時代によってどんな作品が好評を得られるかは流行り廃りがあるものの、
ずっと昔から受け継がれてきた伝統も失ってはいけないというよく言われることですが、
箙さんのように長く宝塚に時間を捧げてきた方の言葉にはいっそうの重みがありますよね。
そして、15才で入った宝塚の世界は「夢と現実でした」と表現した箙さん。
漠然と「宝塚に入って良かった」と思っているものの、
「本当にそうだったのかは今は分からない」と。
「宝塚に入って良かったです!」と語って数年で退団していった下級生たちも本当にそう感じていると思うけれど、
「自分は長くいた分、もしかしたら別の道を選んでいた方が良かったのかも知れない」と思うこともあるんだそうです。
けれど退団して、「やっぱり宝塚に入って良かったんだ!」と思える日が来ると信じていると、
一言で「良かった」と言い切れない思いを綴っていました。
退団発表からあっという間に宝塚を卒業してしまった箙さん。
まさか最後のインタビューで前歯が欠けた話が聞けるとは思いませんでしたが(笑)( 〃▽〃)
箙さんが過ごした時間のごく一部しか知らないピエールですが、
それでも箙さんの姿を生で見ることができたことを本当に嬉しく思います。
箙さん、たくさんの素晴らしい舞台を、本当にありがとうございました!
スポンサーリンク
ブログランキングに参加しております。
ポチッとしていただけますと嬉しいです!
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村